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東京地方裁判所 昭和29年(特わ)379号 判決

被告人 庄司宏

大二・二・一七生 公務員

主文

被告人は無罪。

理由

第一公訴事実

被告人は、東京都目黒区緑ヶ丘二千三百六十八番地に居住し外務事務官として、国際連合に関する事務等をつかさどる外務省国際協力局第一課に勤務し、同課の所掌事務中経済社会関係の事務を担当する外、課長を補佐し同課の事務全般に参画していたものであるが、

第一(一)  昭和二十八年十二月下旬頃東京都台東区浅草国際劇場附近において、ソ連人ラストボロフに対し、職務上知ることのできた秘密である同月九日附沢田大使発岡崎外務大臣宛のソヴイエト代表団との関係に関する報告書の写を交付して閲覧させ、

(二)  昭和二十九年一月上旬頃前同所において、前記ラストボロフに対し、職務上知ることのできた秘密である昭和二十八年十二月三十一日沢田大使発岡崎外務大臣宛の朝鮮問題に関する電信報告書の写を交付して閲覧させ

以て職務上知ることのできた秘密を漏らし、

第二  法定の除外事由がないのに、昭和二十九年二月上旬頃、同都新宿区戸塚町三丁目百三十二番地喫茶店「大都会」において、日暮信則より対外支払手段であるアメリカ合衆国ドル紙幣二千ドルを取得しながら、これを所定の期間内に所定の外国為替公認銀行等に売却しなかつた

ものである。

第二証拠の検討

本件公訴事実中、冒頭記載の被告人の居住関係、身分及び職務関係の事実は、外務大臣官房人事課長日向精蔵作成の職員の身分その他に関する件(回答)と題する書面、被告人の検察官に対する昭和二十九年八月十六日附及び同月二十五日附各供述調書によりこれを認めることができるが、第一の(一)、(二)の国家公務員法第百条第一項違反の事実と第二の外国為替及び外国貿易管理法第二十一条、外国為替管理令第三条違反の事実は、すべて被告人が強くこれを否認するところであつて、前者については、検察官長谷多郎のラストボロフに対する同年九月十六日附及び同月十八日附各供述調書(以下順次ラストボロフ調書(1)及び同調書(2)と略称する。)が、後者については、同検察官の日暮信則に対する同年八月二十四日附、同月二十五日附、同月二十六日附、同月二十七日附及び同月二十八日附各供述調書(以下順次日暮調書(1)、同調書(2)、同調書(3)、同調書(4)及び同調書(5)と略称する。)がいずれも主たる証拠となるだけであつて本件において、被告人を有罪とするか否かは一にかかつてこれらの証拠をいかに判断するかにあるといわなければならない。そこで以下この点について慎重に検討を加えることとする。

一、ラストボロフ調書(1)、(2)の証拠能力について。

(一)  これらの調書は刑事訴訟法第三百二十一条第一項第二号にいわゆる検察官面前調書にあたるかどうかについて。

これらの調書は、いずれもラストボロフが米国ヴアージニア州アレクサンドリア・マウントヴアーノン通所在のハンテイングタワアーズアパートメントにおいて長谷検察官に対し供述した内容を録取した書面であることは、各その記載形式と、第八回乃至第十回公判調書中長谷検察官の証人としての供述記載(以下長谷証言と略称する。)により明らかである。この点について、弁護人は、わが国の検察官は国外でこのような職務を行うことはできないのであつて、検察庁法第六条の規定は、検察官がわが国の内外を問わずどこにおいても捜査することができることを認めた規定ではなく、刑事訴訟法第百九十五条、第七十一条、第百三十六条、第百五十三条も検察官がわが国の刑事訴訟法の及ばない外国においてもその職務を行うことができる旨をあらわした規定ではないのみならず、日米両国間に締結された日米犯罪人引渡条約と国内法として制定された逃亡犯罪人引渡法が存在することは、国外においてわが捜査権を行使することができないことを裏づける根拠にもなつているから、長谷検察官が米国において作成した供述調書は、検察官面前調書にあたらない、と主張するので、検討する。

そもそも、検察官面前調書がその証拠能力を認められる理由は、検察官が裁判官に準じた資格で任用され、適正な取調を行うことが期待される点にある。したがつて、検察官がその職務執行行為として人を取り調べ、その供述を録取した場合に、その書面を検察官面前調書として証拠能力を認めることができるのであつて、たとい検察官の身分を有する者であつても、その職務執行行為に関係なく人の供述を聞きこれを録取した場合には、その書面に検察官面前調書としての証拠能力を認めることはできない。そこで、本件においては、検察官の身分を有する長谷多郎が米国内において、ラストボロフの供述を聞きこれを録取した行為は、検察官の職務執行行為としてこれを是認することができるかどうかを判定しなければ、ラストボロフ調書(1)(2)の証拠能力を判断することはできない。この点につき按ずるに、長谷検察官の右行為は、被告人に対する国家公務員法違反の嫌疑によりその捜査を行ううえに最も重要な証拠となるラストボロフを直接取り調べた際になされたことは、長谷証言により明らかである。したがつて、右行為は任意捜査の範囲に属する。ところで、捜査は、任意捜査であると強制捜査であるとを問わず、刑事訴訟法上の行為であるから、刑事訴訟法の適用がない地域においてはこれを行うことができない。元来刑事訴訟法は原則としてわが国の領土全部に適用される、いわゆる属地主義に立ち、したがつて、外国の領土においてほしいままに捜査を行うことはできない建前であるから、弁護人所論のような日米犯罪人引渡条約等による犯罪人引渡、訴訟共助等の国際的司法共助が必要とされるのであつて、弁護人引用の検察庁法、刑事訴訟法の各関係条文は、弁護人所論のように国内の問題を規定したに過ぎないわけである。しかし、一国が他国の承認を得れば、その他国内において、そこの主権を侵害することなく、自国の或る種の権能を行使することができることは、国際法上容認されているものというべく、本件のような捜査権の行使について考えれば、わが検察官が任意捜査として米国内において、人を取り調べるためには、米国の承認を得る必要があるが、その承認を得れば、その承認された限度において、わが刑事訴訟法の規定に準拠して人を取り調べ、その供述を録取することができると解するのが相当である。また、この場合米国の承認は事柄の性質上米国政府又は駐日米国大使が米国を代表してわが駐米大使又はわが政府に対してなされれば、それで十分であると解するのが相当である。そこで、本件においては、長谷検察官が米国内において、ラストボロフを取り調べるため、米国の承認があつたかどうかをみるに、長谷証言によれば、長谷検察官が米国内においてラストボロフを取り調べる意向を表明するに至つたのは、(1)昭和二十九年(一九五四年)一月二十七日附アリソン大使発外務大臣宛書簡、(2)同月二十八日附外務省発米国大使館宛覚書及び(3)同年二月二日附アリソン大使発外務大臣宛書簡の存在に端を発したのであるから、これらの外交往復文書の内容を調べると、(2)の覚書では、わが外務省がラストボロフ事件について緊密に協力するとの米国大使館の申出を歓迎して「調査」(原文のインクワイアリinquiryを、検察事務官佐久間太正の飜訳文も被告人の飜訳文も調査と訳出する。)のため、日本官吏が選任されたときは、米国大使館に通報することを表わし、(3)の書簡では、アリソン大使がラストボロフ「訊問」(原文のインクワイアリinquiryを、検察事務官佐久間太正の飜訳文が訊問と訳出する。)又はラストボロフに関する「調査」(同一の英語を被告人の飜訳文が調査と訳出する。)のため、外務大臣の指名又は任命する者に対し協力することを明かにしている。そこでこのように飜訳を異にした原文の英語インクワイアリinquiryの意味を探究するに、この点に関する鑑定人平野竜一、同伊藤正己の作成した各鑑定書に、これらの外交文書の内容を綜合して考察すれば、これは事実の調査一般を意味し、捜査との関係でいえば、任意捜査を排斥する概念ではないと理解することができるが、同時に、これが任意捜査を含めた趣旨で用いられたと断定することは困難であるといわなければならない。したがつて、これらの外交文書の往復された当時においては、米国が日本官吏のラストボロフ事件についての任意捜査を承認したと認め難い。しかし、長谷証言、第十二回公判調書中証人関守三郎の供述記載及び在米日本国大使館参事官安川壮作成の回答書によれば、その後長谷検察官の発意に基づき、昭和二十九年八月下旬法務省は外務省に対しラストボロフを取り調べるため東京地方検察庁長谷検察官を法務省刑事局桃沢公安課長とともに渡米させたいので米国政府の同意取り付け方を要請したところ、当時外務省国際協力局第三課長の職にあつた安川壮が在日米国大使館担当官に右の趣旨を伝え、米国政府の同意方を要請した結果、同年九月上旬右担当官から米国政府は右両名が渡米しラストボロフを取り調べることに同意する旨の回答があつたので、これを法務省に伝達し、右両名は通常の手続にしたがつて米国政府の入国査証を受けて渡米したこと、長谷検察官は、さきに認定した日時、場所において、ラストボロフを取り調べるにあたり、米国側の協力を得たことを認めることができる。されば、長谷検察官が、国際法上適法に任意捜査として、米国内において、ラストボロフを取り調べるについて米国の承認があつたものと解するに十分である。したがつて、米国の承認を得てなされた長谷検察官の右行為は、国内法上憲法秩序に牴触しない以上、これに検察官の職務執行行為としての効力を認めることができる。そこで、長谷検察官の取調において作成されたラストボロフ調書(1)(2)は検察官面前調書として証拠能力を認めることができる。

(二)  これらの調書に供述者の署名があるかどうかについて。

長谷証言、ラストボロフ調書(1)(2)によれば、ラストボロフ調書(1)、(2)(和文)は長谷検察官がラストボロフの英語による供述を通訳人須磨未千秋を介し、日本語に通訳録取して作成したものであるが、同検察官は、さらに、これらの調書(和文)の内容をさらに同通訳人をして英文に飜訳させた文書を併せて作成させたうえ、これを同通訳人をして供述者に読み聞かせ閲覧させたところ、供述者は調書(和文)はよく読めないが、飜訳文の内容は自分の供述どおりに相違ない旨を申し立て、調書(和文)には署名せず、その飜訳文に署名したこと、同通訳人及び同検察官は調書(和文)の末尾に各署名押印していること、調書(和文)の作成にあたつた同検察官の認印が調書(和文)とラストボロフ署名の右飜訳文との契印として順次に連絡して押捺されていることが認められる。この点について弁護人は、ラストボロフ調書(1)、(2)(和文)には供述者の署名がないから検察官面前調書としてその証拠能力がないと主張する。しかし、検察官面前調書に供述者の署名又は押印を必要とするのは、供述者をして供述の内容の正確性を承認させることにあると解されるところ、右英文の飜訳文は右通訳人が調書(和文)に基づいて飜訳作成し、英文の飜訳文に供述者自身の署名があるうえ、検察官が調書(和文)と英文の飜訳文とに契印して、調書(和文)に通訳人、検察官双方の署名押印があるから、供述者の供述の内容の正確性を承認する署名の効果は、当然調書(和文)にも及ぶと解するのが相当である。したがつて、この場合調書(和文)と英文の飜訳文は一括して供述者の検察官に対する供述調書として証拠能力を認めることができるものと解する。

(三)  これらの調書は英語を用いて作成されたから無効であるかどうかについて。

これらの調書(和文)が英文の飜訳文と一括して検察官面前調書となつていることは、さきに認定したとおりであるが、この点について弁護人は、裁判所法第七十四条の準用により検察官面前調書は当然日本語を用いて作成されるべきであつて、これに反したこれらの調書は無効として証拠能力がないと主張する。しかし、裁判所法第七十四条、刑事訴訟法第百七十五条、第百七十七条の規定の趣旨は、外国語による裁判上の発言又は外国語の証拠書類の提出を禁ずるものではなく、これらはすべて日本語に通訳又は飜訳をさせなければ効力を有しないというのであつて、本件においては、英語を用いた文書はいずれも日本語に通訳又は飜訳をさせた文書が添附されて提出されているから、前掲の各条文に反することなく、したがつて有効な検察官面前調書として証拠能力があると解すべきである。

(四)  これらの調書については、供述者が国外にいるため公判期日において供述することができない場合にあたるかどうかについて。

ラストボロフ調書(1)、(2)は、長谷検察官が米国内においてラストボロフを取り調べ、その供述を聞きこれを録取した書面であることはさきに認定したとおりである。また、これらの調書を取り調べる公判審理の過程においてラストボロフが米国から退去せず、したがつて、証人として当法廷に出頭し供述することができなかつたことは、昭和三十三年(一九五八年)九月五日附米国大使館発の文書、同飜訳文及び昭和三十四年六月二十五日附法務省入国管理局登録管理官室作成の外国人出入国記録調査書により明らかである。されば、これらの調書が刑事訴訟法第三百二十一条第一項第二号前段にいわゆる供述者が国外にいるため公判期日において供述することができないときにあたる場合には、その証拠能力が認められる。ところが、右に述べた場合というのは、わが国内において検察官の取調を受けて供述した結果、供述調書を作成された被告人以外の者がその後何らかの事情により国外に行き、現在も国外にいるため、公判期日において供述することができない場合であることが通常の事例であるから、本件のような特殊の場合をも同様に取り扱うことができるかどうか一応の疑問が存するところである。前掲第二号前段が必要性の要件として掲げる死亡も所在不明も供述調書の作成があつた後に生じた事由であるところから、国外も同様に解する考え方もあるかもしれないが、それは身体の故障が供述当時から存在しても差支えない点からみれば、少くとも文理解釈のみでは無理であつて、さらに実質的な理由づけを必要としよう。この点について弁護人は、供述者が初めから国外において検察官の取調を受けて供述した本件の場合には、検察官も供述者も供述者が公判準備又は公判期日に証人として出頭することなく、したがつて被告人及び弁護人から反対尋問を受けることがないとの確信のもとに供述調書が作成されたものであるから、このような供述にあつては、供述の真実性及び特信性を保障する条件がないと主張する。この主張には一理あるかもしれないが、そのような理由からすれば、供述者の身体の故障が供述当時にも存在し、もしくは供述者が重病で死期の近づいたことが明らかである場合、または供述者が供述直後国外に移住することが明らかである場合には、いずれも供述者が公判準備又は公判期日に出頭することのできないことが予想されるのであつて、このような場合に作成された供述調書はすべてその証拠能力を否定することになるが、条文上からは何ら適用上制限を設けないのにかかわらず、これらの場合にまですべて適用がないとすることにはきわめて疑問がある。この主張に関連し、供述者が供述した当時将来公判準備又は公判期日に出頭することのできないことが予想され、且つ被告人又は弁護人をその供述に立ち会わせて反対尋問をさせることができた場合に、その尋問の機会を奪つたときは、その供述調書の証拠能力を否定することができるかどうかについて議論の存するところであるが、本件においては、被告人又は弁護人をラストボロフの供述に立ち会わせることができなかつたのであるから、他の要件の充たされる以上、これらの調書の証拠能力を認めることができる。思うに、憲法第三十七条第二項の規定は、伝聞証拠排斥の原則を宣明するが、このことはすべての伝聞証拠の排斥を意味するものではなく、合理的な例外を許さないわけではない。つまり、反対尋問に代るほどの信用性の情況的保障があつて、且つ、その証拠を用いる必要性があれば、その例外となりうるわけである(昭和二七年四月九日最高裁判所大法廷判決参照)。前掲第二号前段の規定はその意味において設けられたものと解されるので、この点からみれば、本件のように供述者が国外において検察官の取調を受けて供述し、その結果国外において供述調書が作成された場合も前掲第二号前段にあたると解するのが正当である。

したがつて、これらの調書は検察官面前調書として証拠能力があるといわなければならない。

(五)  これらの調書の任意性について。

長谷証言、第十二回公判調書中証人関守三郎の供述記載及びラストボロフ調書(1)、(2)によれば、長谷検察官がラストボロフを取り調べた際、桃沢課長及び須磨通訳人のほかは同室した者はなく、もちろん監視人もなく、極めて平穏に取調が続けられ、その間少しもラストボロフ本人の自由を束縛し、又は強制、拷問、脅迫にわたることのなかつたことが認められる。この点について弁護人は、供述者本人の人権保障のもとに取調を行つたかどうか疑いがあると主張するが、これは証拠上認められない。したがつて、これらの調書の任意性は十分であるので、その証拠能力を認めることができる。

以上(一)乃至(五)の点について、ラストボロフ調書(1)、(2)の証拠能力について検討したが、結局これらの調書の証拠能力はあると結論する。

二、ラストボロフ調書(1)、(2)の証明力について。

これらの調書の証明力を検討するにあたり、まず検察官が供述の真実性について心証を得た根拠となる事項を究明する。

(一)  ラストボロフの連絡場所について。

この点について長谷証言の要旨は次のとおりである。

「ラストボロフ本人が話していると、判断力、記憶力が確かである。取調の途中は、いわば快活で真面目な態度であつた。本人の供述の中で、自分が捜査上得た外の資料とときどき一致した供述、裏づけのある供述が、具体的なポイントは調書を見ないと思い出せないが、あつた。それから調書をとりながら本人のいつたことは、外の点はまちがいないが、一点だけ日本に帰つてみないと本当の確信の裏づけはとれないと思つたことがあつた。それは、庄司被告人との街頭連絡場所を本人からいい出して、略図を自身で書いた。この場所は、自分の全然知らない場所で、東京にあるのかないのかも知らなかつた。しかし、せつかくこういつた以上そのまま書いて、これ程しつかりしておれば、真実にまちがいないと思うが、真実か嘘か、帰つてみて、あるかどうかで、最後の疑念の一つが決まるという感じでいた。帰つてから、すぐ、同僚の検事に持ち帰つた調書を渡し、その略図のことをすぐいつた記憶がある。しばらくたつてあのとおりの場所があつたとかいう話を聞いて、細かい内容は聞かなかつたが、そうかと思つた。自分は一つ疑念が残つていたが、そこもいいので、本人がいつた範囲ではまちがいがないという心証を持つた、」と。

ところで、ラストボロフの判断力、記憶力が正確で、真面目な態度であつたということは検察官の単なる印象に過ぎず、他の客観的資料によりその裏づけがなされないと、右事実が合理的なものとはならない。また、捜査上得た外の資料とときどき一致した供述、裏づけのある供述であつたというが、その外の資料とは何を指すのか明確でなく、日暮調書(1)乃至(5)以外これに関すると思料される資料は証拠としても取り調べられていないから、ラストボロフの供述がどの程度他の資料と一致し、真実性をあらわしているのか、判断することができない。

それはさておき、ラストボロフ調書(1)、(2)には被告人との街頭連絡の場所として、

(1) 明治神宮外苑の日本青年会館からあまり遠くない道路上。昭和二十五年(一九五〇年)末か昭和二十六年(一九五一年)初頃ラストボロフが同僚ポポフから被告人を引き継いで被告人と初めて会つたと供述する場所。

(2) 白木屋と三越の間で日本橋と同じ川にかかつている昭和通の橋のたもとの公衆便所の所。昭和二十八年(一九五三年)十一月か十二月ラストボロフがクリニツチンから被告人を引き継いだと供述する場所。

(3) 浅草の国際劇場附近の路上(略図添附)。昭和二十八年(一九五三年)十二月末頃、昭和二十九年(一九五四年)一月初頃及び同月十四日ラストボロフが被告人と会つたと供述する場所。

が表示されている。これら三個所のうち、(2)の場所は、昭和二十九年十月二日附司法警察員作成の実況見分調書(添附の図面二枚、写真十五枚を含むもの。)により、(3)の場所は、同日附司法警察員作成の実況見分調書(添附の図面二枚、写真十二枚を含むもの。)により、当該各実況見分の場所に一致することを確認することができ、とくに(3)の場所についてはその実在することによつて検察官の最後の疑念の一つを払拭するに至つたとされる点において、右の確認は供述の信憑性をみるうえに一見重要であるようである。しかし、ラストボロフは昭和二十一年(一九四六年)一月から同年十一月まで、及び昭和二十五年(一九五〇年)から昭和二十九年(一九五四年)一月まで東京都内に居住していたことは、ラストボロフ調書(2)添附の陳述書(英文)、同翻訳文により認められるから、同人が都内の地理、とくに明治神宮外苑、日本橋、浅草方面等都内の居住者なら容易にしばしば行き易い地域に明るかつたものと推認されるので、同人が検察官に対し自分の知悉している都内の適宜の場所を街頭連絡場所として述べることも優にできるわけである。したがつて、たまたま、ラストボロフの供述した場所が実況見分された結果その実在することが確認されたからといつて、直ちに右供述にすべて信憑性を認めるのはまことに危険であるといわなければならない。なお、ラストボロフ調書(2)には、「被告人は自分に、被告人がクリニツチンと連絡中、前掲(2)の場所の通りで挙動不審のため警察官に止まらされて被告人の書類を調べられたことがあるといつていた、」との記載があるが、もしこの記載どおりの事実があつたなら、所轄警察署その他の関係警察官を調査することにより、その裏づけの証拠があるはずであるが、この点の証拠も本件には出されていないので、この記載部分の供述の信憑性も十分であるといい難い。

(二)  ラストボロフの連絡状況について。

ラストボロフ調書(1)には、「自分は一九五四年一月下旬までの数年間ソヴイエト社会主義共和国連邦の東京における諜報機関員としてソ連の駐日代表部で働いていた。その間、自分はその諜報活動の手先の一人として日本の外務省国際協力局に勤務していた庄司宏を使つたことがある。同人は自分に、その間、数十回にわたつて同人が日本の外務省の職員として職務上手に入れた公文書や国の安全に関する日本政府の政策の秘密情報でそれを容易に入手できる立場の友人から手に入れたものを自分に提供してくれた、」趣旨の記載と、ラストボロフ調書(2)には、「自分が庄司を引き取つて自分の手先に使つたのは、一九五四年一月までであつた。自分と庄司との接触は大体月一、二回水曜日か木曜日の夜、日本橋と昭和通の間の場所か国際劇場の近くの浅草で行つた。自分は同人から公文書の原本を受け取つたときは、すぐにソ連の駐日代表部に持ち帰つて写真にとり、いそいで同人に原本を返した、」趣旨の記載がある。これらの記載は、ラストボロフが被告人との接触に関する総括的関係を述べた個所に見出されるが、これらの記載によれば、被告人がラストボロフに交付した公文書はすべて原本であつたもののように観取される。ところが、ラストボロフが前掲調書(1)の記載部分に引き続き、被告人との連絡の日時、場所と提供を受けた資料の内容を正確に覚えているのは、ほとんどその最後の時に起つたものであるとして、その二、三の実例について述べた同調書(1)の記載部分には、「(一九五三年一二月末頃)自分が受け取つた書類はたしか数枚の紙に庄司の筆蹟で書かれた日本の国連オブザーバーから外務大臣に宛てた通信文の写であつた。したがつてそれは公文書の原本そのものではなかつたが、同人の書いた報告書には、その書類が公文書の正確な写であつて秘密のものだということが説明してあつた。現在その写の詳細及び内容までは暗記していないが、その意味は国際連合のある委員会に日本の参加を認めるかどうかという問題について、ヴイシンスキーがこれに拒否権を使わないで棄権するにとどめたことを日本のオブザーバーが感謝の意味やその他のこと等を含めて報告したものであつた。((このとき国連第六一三号、昭和二八・一二・九附在ニユーヨークの国連沢田大使発外務大臣宛「ソヴイエト代表団との交渉に関する件」と題する公信写を、通訳を介して読聞かせた。))自分が今聞いた国連のソ連代表団の関係者等に関する文書の内容は、庄司から自分が受け取つた前述の書類の内容と同じものである、」趣旨の記載があり、その英文の飜訳文には、読み聞かせた点につき、「国際連合におけるオブザーヴアー沢田大使から外務大臣にあてて送られた一九五三年一二月二九日附の国連第六一三号電報「ソヴイエト社会主義共和国連邦代表との交渉」についての写が、通訳人によつて英訳されてラストボロフ氏に読み聞かされた、」旨の記載があつて、この両者の間には、日附及び公信か電信かの重要な点に相違がある(この点ラストボロフ供述の信憑性に影響をもつ。)が、さらにまた同調書(1)には、引き続いて、「自分がその当時(一九五四年一月初頃)受け取つたその紙と飜訳文を見た記憶では、その紙にはたしかに庄司の筆蹟で外務省の秘密の電信の写が書かれてあり、その内容は板門店会談における中共代表のソ連に対する態度に関してまことに興味のある出来事が書かれてあつた。((このとき、「昭和二九年一月一日着信の沢田大使発岡崎大臣宛第一九六号(極秘)」の電信写を通訳を介して読み聞かせた。))自分が今聞いた朝鮮予備政治会議に関する電信の内容は、全く庄司から右のときに自分が受け取つた書類の内容と同一のものである、」旨の記載がある。そこで、疑問とされるのは次の諸点である。

(1) ラストボロフが受け取つたと供述する本件公文書は、果してその原本であつたのかまたは被告人自筆の写であつたのか。本件公文書の二回にわたる授受は被告人に関するラストボロフの諜報活動としては終期に属するものであつて、同人の記憶としては最も新らしいものであるのに、それ以前の公文書がすべてその原本であるとすれば、なぜ本件公文書のみが被告人自筆の写となつたのかその変更の理由について理解するのに苦しむところである。

(2) 本件二通の公文書のうち、後者の公文書授受の際、その書類が公文書の正確な写であつて、秘密のものであるとの説明があつたのか、またはなかつたのか。ラストボロフは、前者の公文書授受の際には、その旨の説明が報告書に書かれてあつたと供述するが、後者の公文書授受の際も同様であつたかどうかについて何ら供述しないが、供述した全体の内容から考察すれば、右の説明はなかつたように推認される余地があるが、それではなぜ両者の間にこのような差違が生じたのか、これまた理解にやや苦しむところである。

(3) いかなる事件の供述者でも、事件当時から相当長時日を経過した時に供述するのでない限り、その関与した当時の状況につき、天候、交通量、会話の内容その他具体的に他の場合と区別される特徴を浮き彫して供述するのが普通であるのに、ラストボロフ調書(1)には、関与した当時から約八、九個月しか経過しない時期に供述したのに、この点の供述を欠き、すこぶる抽象的であるのは何故であろうか。これはラストボロフが実際に本件公文書の授受に関与しなかつたのではなかろうかとの疑問を起す余地がある。

(4) 本件二通の公文書は、ラストボロフの手に移つてから後いかに取り扱われたのか。これらの文書が原本であるとすれば、ラストボロフ調書(1)の同人が被告人との接触に関する総括的関係を述べた個所に記載されているように、これを写真にとつてから被告人に返還したことになるが、これらの文書が被告人自筆の写であるとすれば、その授受に関する個別的関係を述べた個所においては、この点に関する供述を全く欠くので、いかに処分されたか不明である。しかし、この点も重要な疑問点となるのであつて、ラストボロフ供述の信憑性に疑問を投ずる一根拠となるといわなければならない。

(三)  被告人の写真について。

ラストボロフ調書(2)には、ラストボロフが被告人の識別をしたことにつき、「この時庄司宏と同年令位の日本人の写真六枚中に庄司宏の写真一枚を混入させたものを陳述人に示したところ、陳述人は直ちに庄司の写真を引き抜いたので、これを別紙に貼付して本書末尾に添付した、」との記載があり、被告人の写真が同調書末尾に添附されている。ところが右調書と一体をなしている英文の飜訳文には、「庄司宏の肖像写真を含めた彼と似た年令の日本人の男の写真数枚がラストボロフ氏に示されたが氏は直ちに庄司の、ここに添附した写真を選び出した、」との記載がある(飜訳人伊藤正己の英文の飜訳文からの和文飜訳文による)。そこで、検察官がラストボロフに示した写真は六枚であるか数枚であるか諒解に苦しむところである。もちろん写真の六枚は数枚もといえるが、調書と一体をなしている英文の飜訳文との相違はこれを軽視することができないし、同じ調書にラストボロフに対し日暮信則の肖像写真を含めた彼と同年令位の写真十枚を陳述人に示したとの記載があり、これは右調書と一体をなしている英文の飜訳文と一致しているところをみれば、一層その感を強くするが、そのうえいかなる内容の写真を示したのか証拠上も明らかでなく、しかも検察官の渡米前までに昭和二十九年七月警察庁、公安調査庁の関係官も本件に関し渡米してラストボロフの供述を聞いていることが長谷証言、ラストボロフ調書(2)によりうかがわれる以上この程度をもつては、ラストボロフが被告人の写真を選び取つたことにより被告人を十分識別していたとする供述はたやすく措信し難い。

(四)  被告人の筆蹟について。

ラストボロフが被告人から受け取つたと供述する本件公文書二通が原本であるかまたは被告人自筆の写であるかどうかについて、疑問のあることはすでに述べたとおりであるが、それはさておきラストボロフの供述にしたがつて同人が被告人の筆蹟をまちがいなく確認できるかどうかについて検討する。この点ラストボロフ調書(2)には、日本人の対ソ協力者から出させる宣誓書には日本語で日本字の署名を用いるが、これは筆蹟を確保しておく意味もあること、日本人の対ソ協力者の数は、三百名位であるが、諜報活動の手先の者は少くとも二十名以上明らかであつて、昭和二十年(一九四五年)誓約した五人のグループの中に被告人も含まれていることが記載され、これに対応して長谷証言にも、ラストボロフは被告人の字を知つていたという印象を受けたこと、同人は被告人の字を読めるかどうかは別として、おそらくその形を見て、被告人の筆蹟であることを的確にできると考えたこと、同人は諜報関係のベテランとしてその手下というか、その相手方の署名も字の形も的確に見究めることができる人であると思えたこと、が供述されている。したがつて、ラストボロフ調書(2)の記載内容にあるとおりラストボロフは被告人の筆蹟を署名又は字の形位によつて一応確認することができるように見える。しかし元来人の筆蹟は人の性格に応じた個性の発露であるとはいえ、筆記した際の人の心理状態、位置、使用材料等の変化によりその筆蹟も変化し、その同一性の確認はきわめて困難な事柄に属し専門家によつてもしばしば誤認されるところであり、専門家でない者に至つては、特別の事情のない限りその真偽を判別し難いのであるから、この点をとくに考慮に入れ、さらに本件においては、被告人がラストボロフに交付したと供述する本件公文書の被告人自筆の写は証拠上存在しないため、その筆蹟の同一性を確認する手段がないこと、日本人の対ソ協力者が三百名位に及ぶため、その中の被告人一人の筆蹟を選別することは、特別の事情の見出されない本件においてはきわめて困難であることを思うとき、たとい宣誓書に日本語の署名がなされたり、またはラストボロフが諜報機関のベテランであるとしても、そのことから直ちに同人が被告人の筆蹟を容易に確認することができると推論することは困難であり、したがつて、被告人自筆の写にまちがいがないとするためには、さらに一段とその字体の特質、筆の運び方等に関する具体的なラストボロフの供述とこれを裏づける客観的合理的な資料が必要であるといつても酷に失するきらいはないといえよう。しかるに本件においてはこれらの証拠資料を欠くので、ラストボロフの被告人筆蹟の確認に関する右供述は真実であると速断することに躊躇せざるをえない。

(五)  報酬その他の金員の授受について。

ラストボロフ調書(2)には、「自分は一九五〇年の末か一九五一年の初頃同僚のポポフから同人が使つていた被告人を諜報活動の手先として引き継いだ。その後一九五一年の末か一九五二年の前半期に自分は被告人をクリニツチンに引き継いだ。また自分は一九五三年十一月か十二月にクリニツチンの手から被告人を引き取つた。自分が被告人を手先に使つたのは一九五四年一月までであつた。被告人は諜報活動の報酬金をきちんと請求した。被告人を別に共産主義者と思わなかつた。自分は被告人が金のためソヴイエトの手先として働いたものと思つていた。自分は、被告人に初めのうちは月二万五千円の手当を払つていたが、手当は後に三万円増額されていた。自分が被告人を再び自分の手先に使つた時には、月三万円を払つた。われわれはその他に被告人の要求で家屋の金を与えている。また被告人は年末と夏の二回日本の習慣で上司におみやげを贈る金の足しにするといつて五千円とか一万円とかを請求したので、われわれはこれに応じた、」との記載があり、また同調書(1)には、「最後の連絡の時(一九五四年一月一四日)に自分は被告人に千円札三十枚を暗黄色の細長い日本封筒に入れて渡した。これはいつもの例で被告人に対するその月分の諜報活動の手当として与えたものであつた。」旨の記載がある。そこでこの供述を検討するに、つぎの疑問が存在する。

(1) 家屋の金を与えたという点は真実であるか。建物所有権移転登記申請書(登記済証)によれば、被告人は昭和二十二年八月九日現住居所在の木造瓦葺平家居宅一棟につき売買により被告人の妻名義に所有権を移転した旨の登記を了したことが認められるから、ラストボロフの供述する家屋の金というのが、もし右居住家屋を購入するための資金を意味するとすれば、すでに登記まで了した以上通常の場合としては、おそらく右金員を必要とするはずはなく、またもしその他の家屋の購入資金を意味するとすれば、これを裏づける証拠のない本件においては、具体的に事実を把握するに由なく、結局この点の供述は意味のないことに帰着する。したがつていずれにせよ、この点の供述は真実性をもつかどうか疑わしい。

(2) 授受したという報酬額は、物価または給与の水準に照らし終始妥当であつたか。報酬額に関するラストボロフの供述を検討するには、前述の被告人に支給したとの供述のほか、日暮信則に支給したとの供述をも参酌する必要がある。この関係については、同一調書に、ラストボロフが日暮と接触中(一九四六年七月頃から同年一一月頃まで)毎月一万五千円から二万円位の報酬を同人に支払い、また一九四九年には、日暮の手当が月三万五千円であつたことを知つた旨の記載がある。そこでラストボロフの供述にあらわれた報酬額を綜合して考察すると、昭和二十一年から昭和二十九年までの物価又は給与の水準の著しい上昇(その間約二十倍)に比較してこれらの報酬額の変化はきわめて僅かであることは、特別の事情の看取されない本件においては不可解というべく、これは結局報酬額に関する供述が供述当時の物価又は給与の水準のみを念頭において抽象的に行われたのではなからうかと疑われる余地もある。

(3) 報酬に関する取り決めはどうなつていたか。ラストボロフの供述によれば被告人は金のために働いたというのであるから、同人が被告人に対し支払う報酬の取り決めは、被告人にとり最も関心があるはずであるから、当然この点に関する契約、支払条件、支払方法等に触れた同人の供述が見出されるべきであるのに、これが同調書(1)、(2)の中にあらわれていない。わずかに最後の連絡の時における報酬額について或る程度だけ同調書(2)に見出されるに過ぎない。したがつて、この点に関する供述の信憑性も十分でない。

(六)  ラストボロフの供述を価値づける条件について。

ラストボロフの供述調書(1)、(2)を検討するも、供述者たるラストボロフ本人が道徳的にすぐれた人物であるか、その感情、情緒の面や精神状態がどうなつているかについて詳細に触れたところがなく、長谷証言によつてもこの点は明らかでない。したがつて、これらの点が明確でない以上、その供述が果して価値のあるよい証言であるかどうかを決定する因子を欠くといえよう。ただ、ラストボロフ調書(2)に添附されたラストボロフ陳述書には、「一九五〇年になつてから自分の課長は自分の日本への再任を推薦した。この新任務を得たことについて、ソヴイエト組織の自分に対する新しい圧迫が極めて顕著になつて来た、」旨を中心とする同人の複雑な心理が描写されているが、これとても同人の日本国内における行動の尋常でないことを暗示し、したがつて、これについて同人が供述する際の心理状態も複雑であることを推認し易くするので、その供述がよい証言となる徴憑はかえつて見出し難い。このため同人の供述に全幅の信頼を措くことができないわけである。

ラストボロフ調書(1)、(2)について、以上(一)乃至(六)の諸点にわたつて個別的に検討した結果多くの疑点が鮮明されないまま存在し、また少からず信憑性の不十分なまたは不完全な供述が存在することが明らかとなつたが、同調書(1)、(2)にはラストボロフと被告人との実際の連絡がなければ供述し難い特殊な具体的事項も見出されないので、他の証拠をあわせ同調書(1)、(2)を綜合考察するときは、同調書(1)、(2)の証明力は不十分といわなければならない。もつとも被告人が職務上本件公文書の秘密を知つたことは第四回公判調書中証人吉岡俊夫、同星文七の供述記載、第七回公判調書中証人栗野鳳の供述記載によりこれを認めることができるが、この事実があつたからとて右の結論を左右するに足りない。

要するに、被告人一般についていえることであるが、共犯者その他唯一の供述者の供述により有罪とされるためには、裁判官の確信を動かすことができないようにその供述の証明力が十分でなければならない。そうでない限り、その供述のみを証拠とするのでは有罪とされない。この場合はその供述は客観的に基礎づけられた証拠により裏づけられてはじめて有罪と、されるわけである。したがつて通常は二人以上の異論のない供述者の供述により有罪が確認されるわけである。しかるに本件においては、ラストボロフ調書(1)、(2)のみではその供述の証明力が不十分であつて、これを裏づける客観的に基礎づけられた証拠もないといわざるをえない。したがつて、被告人に対する国家公務員法違反の公訴事実はその証明がないことに帰着する。

三、日暮調書(1)乃至(5)の証拠能力について。

これらの調書の供述者日暮信則は国家公務員法違反被疑事件により被疑者として昭和二十九年八月十四日逮捕勾留され、引き続き同月二十一日から連日のように長谷検察官の取調を受け、最後の日暮調書(5)の作成終了直後の同月二十八日午後一時四分東京地方検察庁の四階取調室から飛び降り自殺を遂げたことは、長谷証言、第五回公判調書中証人佐々木正雄の供述記載(以下佐々木証言と略称する。)、東京法務局民事行政部戸籍課法務事務官平田栄作成の死体検案書(死亡診断書)、水戸市長山本敏雄作成の戸籍謄本により認められる。したがつて、これらの調書は、刑事訴訟法第三百二十一条第一項第二号前段にいわゆる供述者が死亡のため公判期日において供述することができない場合にあたれば、その供述者の署名または押印のあるものについて検察官前面調書として証拠能力が認められる。この点について弁護人は、右前段にいわゆる死亡とは、供述者が取調を受けた後相当期間の経過があつてからの死亡をいうのであつて、本件のように取調と自殺との間が著しく接着している場合には、死亡後に死人の指印を押したのではないかという疑問を狭む余地さえ生じるので、これらの調書は証拠能力がないと主張するので検討する。

長谷証言及び佐々木証言によれば、これらの調書は、日暮調書(5)を含めすべて調書作成の後日暮に読聞けあるいは閲覧のうえ、署名、指印されたことが明らかであるので、指印につき弁護人主張のような疑は全くないのみならず、前掲前段にいわゆる死亡の意味について、ことさら供述者の取調から相当期間経過した死亡であることを要するものとする格別の理由もないから結局これらの調書は供述者が死亡のため公判期日において供述することができない場合にあたり、しかもその供述者の署名指印があるので、証拠能力があるといわなければならない。

次に、これらの調書の任意性について検討するに、弁護人は日暮が検察庁四階取調室から飛び降り自殺を遂げたことは、その取調がいかに苛酷であつたかを推測させるに十分であつて、同人は被疑者として取調を受け、その供述内容は自白であるから、これらの調書は刑事訴訟法第三百十九条によつて証拠能力がないと主張するが、長谷証言及び佐々木証言によれば、検察官は日暮に対しその取調の間強制、拷問、又は脅迫により自白を求めたこともなく、同人の任意の供述に基づきこれらの調書が作成されたことを認めることができるから、弁護人の主張するところは単なる憶測にとどまるものであり、これらの調書の任意性を疑う余地はない。したがつて、その証拠能力は優に認められる。

四、日暮調書(1)乃至(5)の証明力について。

次にこれらの調書の証明力を検討する。日暮はなぜ取調の進行中に自殺の道を選んだか、その原因については証拠上ついにこれを確認することができない。この自殺の原因の不明であることは勢いこれらの調書の信憑性に一抹の暗影を投ずるものといえる。また虚偽の自白は、自殺の目的から生ずることもあるので、これらの調書が真実であるか虚偽であるかを判別するには十分注意しなければならない。これらの調書の記載からその証明力を検討する前に、検察官の日暮に対する取調経過に触れておく。同人に対する被疑事件は国家公務員として国家の秘密を漏洩したことを内容とするものであるが、長谷証言によると、日暮調書(1)は形は一応否認であるが、将来それを受けて自白調書にすなおに変つていくという筋の否認であり、日暮の秘密漏洩ではラストボロフも関係しているが、その点を調書に取らなかつたのは、取調の具体的な雰囲気というか、自然の成行を受けて立つ態度でいたからである旨が明らかにされているが、その後の取調においても、同人の諜報活動についての詳細な供述があるにかかわらず、被疑事実についての具体的供述がないのは何故であろうか。その理由を見出すことは困難であるが、むしろ同人は取調の当初から終始被疑事実を否認していたのではないかとの疑が残る。さてこれらの供述調書の記載について検討を進めよう。

(一)  税法違反の事実について。

日暮調書(1)には、自分はこの事件に対する供述として、現在抽象的にいえることは自分が在官中に文筆、講演等で得た副収入に対する税法違反の事実は確かにあるし、それに対して処罰を受けることはしかたがない旨の供述がある。一体被疑者が検察官の当初の取調にあたり、被疑事実の認否の前にこのような別件の事実を述べることは異例といえよう。長谷証言によれば、日暮が話の筋としていい出したことになるが、被疑者がこのように進んで自供することは不自然であり、その供述のただごとでないことがうかがわれる。

(二)  米ドル二千ドルの授受について。

日暮調書(3)、(4)には日暮が昭和二十七年一、二月頃狸穴のソ連大使館で四十五、六歳位のソ連人から暗号書三枚を預かり、その帰途ジープの中で眼鏡をかけたクリニツチンらしいソ連人から米ドル二十ドル紙幣百枚を、「これは君に預つてもらいたい。君にやるのではなくて、将来必要ができた時に誰かに渡してもらいたい。」といわれて預かり、翌日外務省の日暮の部屋の同人使用のキヤビネツトの中に「日暮私物」と表紙に書いたフアイルばさみに入れて保管したこと、昭和二十八年五、六月頃手帳に入れておいた暗号書を紛失したことに気づき、その一個月後にクリニツチンらしい男に右紛失を報告したことが記載され、また日暮調書(5)には、右ドルを受け取つた後最初に眼鏡のソ連人と連絡をもつたのは、右暗号紛失を告げた時で、当夜八時に自分が眼鏡のソ連人と落ち合うまでに自分は内閣調査室に遅くまで仕事か何かで居残つたため、返したいドルを外務省に立ち寄つて持ち出すことができかねたためにこれを持参しないで連絡に行つたこと、その連絡中ドルの返還を申し出たが、ソ連人は返すことを承諾する様子を見せなかつたこと、ラストボロフ失踪事件があつた後、米ドル二千ドルを返すため、狸穴のソ連代表部に二回連絡し、二回とも自分は外務省のキヤビネツトから新聞に包んだ二十ドル紙幣百枚の金を返すため取り出し持参したのであるが、果さず、この失踪事件から十日位経つた日の夜高田馬場駅の環状線外側へ一町ほど大きな道を真直ぐに進んだ左側にある附近で一番大きな喫茶店で被告人に右米ドルを交付したこと、日暮は被告人に右二千ドルを先方へ返してもらうことを頼んでその承諾を得た際、被告人は、「自分が預ろう。しかし状況によつては焼くかもしれない。その時は焼いたことを先方に伝えよう。」といつてくれたことが記載されている。これらの記載について疑問となる点は次のとおりである。

(1) 日暮が米ドルを預つた趣旨が不明である。

(2) 被告人が処分しても差支えないくらいのものであるならば、なぜ日暮自身で処置をしないで被告人に保管を託してその責任を転嫁したのか疑わしい。同調書(5)によると、日暮はこの米ドルは同人に重大な秘密に触れるものであり、当事者間で極秘に処理すべきものだと観念していたと述べているが、現金である外貨を長期間にわたり安全な自宅を避け、外務省のキヤビネツトに保管して置くこと自体危険であり不自然であるといわなければならない。

(3) 日暮調書(3)乃至(5)によつては、ラストボロフ失踪の昭和二十九年一月下旬以前に右米ドルを返還する方法を具体的に講じたことが認められないから、米ドルを放置したままですまされていたとしか考えられないが、それは何故であるか。同調書(5)では、ただ機会があつたら返したい気持が強くなつたと供述するのみで、この間の事情について明らかにした供述のないのは不十分である。

(4) 日暮が預つた米ドルを返すとすれば、相手方の意向を確めたうえで約束の場所へ持参するのが通常であると思われるが、この措置も取らないで漫然持ち運びの危険な外貨を携帯することは不自然であるのに、このような供述をしたのは何故であるか、納得することができない。

(5) 日暮がラストボロフ失踪事件から十日位後に被告人と会つて被告人に米ドルを交付したことは、両人の国内帰還後における対ソ協力の関係について触れた供述が同調書すべてを通じて見出されない点よりみて、いかにも突然の出来事であつて、不自然の感を免れないし、また米ドル授受の際に取り交わされた話に出ている先方という者も両人相互の間では熟知されているようであるが、何人を指すのか、またはいかなる範囲の者を指すのか具体的に指摘されていない以上、明らかでない。とくにこの時が対ソ協力の宣誓を実行することに関係した問題で口をきつたのは、モスクワ以来両人が初めてのことであるとして同調書(5)に供述されているのをみれば、なおさらのことである。

(三)  日暮の供述を価値づける条件について。

日暮調書(1)乃至(5)を検討するに、同調書(1)には、その冒頭に、「自分は去る二十一日、二十二日及び本日(二十四日)それぞれ数時間にわたつて調べを貴官から受けた。本件の問題について自分が供述することは自分の肉体的な危険と精神的な悩みに関する問題に痛烈に触れることになり、したがつてこの問題に関する自分の供述を書き取られる調書に対してこれを真実と認めて署名することについてはなお考える時間を持ちたいと思う、」と供述し、みずから自己の供述の真実性を認めることに踏み切れない苦悩を同調書のうえにあらわしながら、秘密漏洩の事実を結局一切否定する供述をし、次に同調書(2)の冒頭においても、まず、「自分はこの度秘密漏洩の嫌疑を受けたことに関して自分の一切の事情を卒直に申し述べる覚悟を固めた。これについては自分として厳しい生命の危険や友情の苦しさ、自分や家族のみじめさ等を実際にはげしく感じて悩んでいる。それにもかかわらず自分は真剣に生きて立ち上るために真実を申し述べたいと思う。」と苦しい心情を重ねて披瀝し、さらに同調書(5)の末尾において、「自分は命の恩人と思える友情を示してくれた被告人に対して、またその後一貫して被告人は被告人なりの生き方を徹しようとしている被告人に対して、自分が今日までに友情の苦しさと生命の危険と二つの悩みに堪えながらこの厳しい真実を申し述べる自分の気持は言葉にあらわせないものがあることを察していただきたい。ただ人にはそれぞれ人の生き方があるという真実も、自分は深く考え抜いて恥じることなく自分の正しい生き方を進まなければならないと考えている。」と悲壮な心境を吐露しているが、これらの供述調書を通じて見られる日暮の深い苦悩、とくに被告人に対する関係で抱く友情の苦しさが具体的に何を意味するかは明らかでないし、この最後の調書の作成された直後に自殺した身の処し方を考慮するときは、同人の供述をすべて価値あるものとして取り扱うのは困難であろう。

日暮調書(1)乃至(5)について、以上(一)乃至(三)の諸点にわたつて個別的に検討したが、ここにもラストボロフ調書に見られたような幾多の欠陥のある供述が見出され、他の証拠をあわせ日暮調書(1)乃至(5)を綜合的に考察しても、問題の米ドル二千ドルの証拠物が存在しない本件においては日暮調書(1)乃至(5)の証明力は不十分といわなければならない。したがつて、被告人に対する外国為替及び外国貿易管理法違反の事実については、被告人名義で米ドルを外国為替銀行及び両替商に売却しなかつた点に関する証拠は十分あるとしても、売却すべき米ドルを被告人が所定の日時に入手保管していた点に関する証拠が上述のように証拠価値のうすい日暮調書(1)乃至(5)のみであつては、その証明が十分でないというに帰着する。

第三結論

以上のとおりであつて本件にあらわれた全証拠によつては本件はすべて犯罪の証明がないので、刑事訴訟法第三百三十六条後段により被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 荒川正三郎 小川泉 神垣英郎)

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